村上春樹の処女作『風の歌を聴け』は、「ジェイズ・バー」というバーが作品の中心舞台になっている。主人公の「僕」ともう一人の主人公「鼠」は、このジェイズ・バーで、ひと夏の間浴びるようにビールを飲み続ける。次のような具合だ。

一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。

時代屋に初めて行き、それからちょくちょく通うになってから僕は、自分にもこのジェイズ・バーができたみたいですごく嬉しかった。ただ、時代屋とジェイズ・バーとではずいぶんと店の雰囲気がちがう。『風の歌を聴け』で、ジェイズ・バーは次のように描かれている。

もっとも、まわりには鼠の大声を気にするものなど誰ひとりいなかった。狭い店は客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあっていたからだ。それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった。

また、次のようにも。

僕は「ジェイズ・バー」の重い扉をいつものように背中で押し開けてから、エア・コンのひんやりとした空気を吸いこんだ。店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと腋の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。

僕には時代屋が「沈没寸前の客船」に見えたことは今まで一度もないし、それに時代屋の扉は重くない。簡単に開く。また、腋の下とか下水の匂いがしたことなど当然ない。そもそも僕は時代屋で不快な思いを味わったことが一度もない(いや、呑み過ぎて気持ち悪くなったことは何度もあるけど)。たいていの場合は静かで落ち着いた雰囲気で、週末などで混み合ってるときでも決して乱痴気騒ぎにはならない。そこにはいつも、美味い酒があり、ずいぶんと話の分かるバーテン諸君がい、品の良いジャズ(ときどき「オイ、これほんとにジャズなのかよ」みたいのがかかることもある)が流れ、ほど良くオープンでほど良くオトナな常連さんたちが呑んでいて、すごく居心地の良い、穏やかで幸福感に充ちた空間が広がっている。

そういえば僕はときどき、時代屋は教会みたいだと思う。時代屋が教会であるなら、そこにいるバーテン諸君は神父ということになる。僕らは、最近あった良いことイヤなこと、つらい出来事うれしい出来事、犯した過ち、傷つけられた想い出、それらのことをあたかも懺悔・告白するかのように、酔いにまかせこの神父たちに語る。いや、べつにバーテンでなくても良い、一緒に行った連れでも顔馴染みの常連さんでも良い。語ればそこで、慰め、励まし、ときに、たしなめ、諫めの言葉がかけられる。

また、バーテンがカクテルを振るとき、それはまるで神父が十字架を切るようであり、そのカクテルが目の前に置かれたグラスに注がれるとき、それは赦しを乞うて跪く信徒に神父が手をかざすようにも見える。カウンターの前に並べられた数百種の酒がセピア色の輝きを放つのは、まるで教会のステンドグラスのようだ。

やがて、僕は潮時を見てこの教会から去る。店を去るときはいつも、癒されたような、赦されたような、幸せな気持ちになっている。もちろんその気持ちは、酒のなさせるワザであり、幻想でありまやかしであるのにちがいない。店に入る前と出た後で、周りにある現実は何一つ変わっていない。変化といえば、シラフだったのが酔っぱらっているのと、財布の中身が少し減っていることぐらいだ。だけど僕らはその幻想を求めて、時代屋へと足繁く通う。ここに来れば幻想を夢見られる、その安堵感にも似た想いが、きっと、やがて僕らの現実に変化を与えてくれるのだ。ジョン・レノンみたいなことを言うようだけど、現実は変えられなくても自分の心は変えられる。自分の心が変われば、やがて現実が変わる。

そうして幻想を求めて集う人たちひとりひとりに、それぞれの想いがあり生き方があり出会いがあり、物語がある。時代屋では、そうした想いや出会いや物語が様々に交錯し、また新たな物語が紡がれる。

村上春樹の『風の歌を聴け』では、一つの恋の話が、作品の一つの中心を為している。「僕」と、左手小指のない女の子との恋の話だ。その出会いの場が、ジェイズ・バーである。そこで出会った彼らはやがて恋に落ちるが、夏の終わりとともに別れの時が訪れる。「僕」は、その町を去り東京へと戻っていく。

僕も、時代屋がその舞台の中心になっているような、一つの恋をした。『風の歌を聴け』に描かれているような、ドライでありながらセンチメンタルな、そして洗練された恋愛ではなかった。それは、ひどく稚拙で不器用で、情けない恋だった。だけど、結末が決してハッピーエンドではない点だけ、『風の歌を聴け』の恋と共通している。

『風の歌を聴け』は、エピローグ前、次のようにして一度閉じられる。
あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

僕はきっと、これからも時代屋のカウンターで、すぎていく風の歌を聴き続けていくことだろう。
いつか、時代屋を舞台にした小説でも書けたらなあ、と思う。